2013年08月30日

ある「大司寇」のこと

 小野 不由美の小説、十二国記の新刊「丕緒の鳥」の中の一節で、ある人物についての評が、なかなか胸に痛かったので、ご紹介します。
 少しだけ言葉の解説をすると、王制を基本とする十二国記の世界で、大司寇とは日本でいうと法務大臣のことです。大司寇の淵雅という人物は、王の息子ということで、法務大臣の地位に就きました。
 以下は、そんな彼に対する、少し厳しい人物評です。

 大司寇(だいしこう)の淵雅(えんが)は劉王以上の劉王と呼ばれる。−−−無論、これは臣下の間でひっそりと呼び交わされる綽名(あだな)だ。賢君の誉れ高い父に対する対抗心の表れなのかもしれない。淵雅はことさら、王以上に王たろうとする。殺刑はならぬ、というのもその表れだろう。
 何事によらず、王が何かを決断すると、淵雅はそれをあたかも自身が最初からそう考えていたかのように力説し始める。もし臣下がその決断に対して疑義を呈し、王がそれを受け入れて自身の決断を引き下げたとしても、淵雅は一切妥協しない。決断はすでに淵雅の決断であって、理も正義も自らにあり、王に変節を勧めた臣下も、臣下の勧めを受け入れた王も間違っていると言って憚らない。太子の特権で正寝にまで乗り込んで王を正そうとした。

 −−−だが、残酷なことに淵雅は王ほどの傑物ではない。そもそも淵雅は、王の決断がなければ何一つ決めることができない。それどころか、自身の意見を持つことすらできないようだった。王が何かを言うまでは、ひたすら言を左右しながら父王の顔色を窺っている。そして王が決断したと見るや、それが最初から自身の主張であったように力説を始めるのだ。父王の思考を追い掛け、それが自らの思考であるかのように主張するばかりでなく、淵雅はさらにその上を行こうとする。論拠を付加し、論旨を肥大させるのだが、そこには現実を無視した正論しかなく、しかも結論が先にありきの論には無理も多い。根本をどこか履き違えていることも多かった。司法の理想を語りながら、理想の根本にある司法の独立を侵すことを疑問に思わない−−−そのように。しかも淵雅には他者の意見を聞き入れて自身の意見を振り返る度量がない。そもそも自分の意見などではないから、当たり前のことなのかもしれなかった。

(新潮文庫 小野 不由美著「丕緒の鳥」P120より)
posted by 結 at 04:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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